『糸島での干拓事業』~豊かさをもとめた歴史~
1. はじめに
糸島地方は、糸島市と福岡市西区を指し、シマ地域とイト地域よりなっています。
シマ地域の北側は玄界灘に突き出た半島で、筑紫富士の愛称で知られる可也山を初め火山(ひやま)、柑子(こうし)岳(だけ)の200~300mの低い山々が連なっていて南側のイト地域とで平野部を構成しています。一方イト地域は平野部の南側は井原山(983m)を最高峰として雷山、浮嶽などの山々が屛風のように取り囲んでいます。これらの山々を源としての河川は、10km程度の中小の河川です。その中で瑞梅寺川と川原川の二つの河川は、弥生時代に王都があった「三雲・井原遺跡」を挟んだ位置にあります。また二つの川は合流して瑞梅寺川として北方向にある今津湾(玄界灘)に流れて行きます。その西側には雷山川が流れ、さらにその西に長野川があり、河口付近で雷山川に合流し加布里湾へと注ぎます。

湾岸沿いは入江があり、潮汐運動などにより潟土の堆積が進み、自然に干潟になる要素がありました。

日本において農耕地の創出手段として中世以前から歴史があり、近世に築堤技術の向上や石造樋門の登場をみて以来、干拓事業は大規模化し盛んに行われてきました。

江戸時代の日本において、気象異常や虫害などによる飢饉により一度に数十万人の餓死者が出ています。享保17年(1732年)の大飢饉において地元の志摩郡では1万8千人の人口のうち3千800人の人が餓死しました。これに対応するためにも田畑の増設が求められました。(また農民の現金収入を目的としてハゼやコウゾを特産品として栽培されました)

近世以前の資料には「干拓」という言葉はなく、同じ意味の言葉を資料から捜すと(1)海辺新地普請(2)新墾(3)開発などの用語があります。「干拓」という用語は大正3年(1914年)に制定された法律(耕地整理法中改正法律改正案)で初めて登場しました。

 ここで糸島においての記録や伝承による干拓の歴史を振り返りたいと思います。この報告書作成にあたり郷土史家の前田時一郎氏より指導、助言を受けました。お礼申し上げます。

2.干拓の歴史
① 龍念開
糸島の津和崎に住んでいた僧侶の龍念が、現在の作(つくん)出(で)付近を近隣の農民を指導して干潟を干拓し完成させたのが天正18年(1590年)とされています。

② 大新開
神在を、唐津藩主の寺沢志摩守廣高が元和3年(1617年)に干拓しました。

③ 岩本開
この岩本も土木・経済にも明るい唐津藩主寺沢志摩守廣高により、元和3年(1617年)に干拓されました。また寺沢志摩守は神在川の改修工事や加布里の塩田開発なども手掛けました。

④ 新田開
筑前福岡藩初代藩主の黒田長政は、家臣の菅和泉正利に雷山川下尻の潟地の干拓を命じて、元和4年(1618年)に完成しました。雷山川の下流を泉川というのは、菅和泉の功績を称えて付けたものです。
この泉川は加布里湾に繋がり、海水と川の水が交わる汽水域で、一帯は水田地帯でもあり、住宅も無いため、渡り鳥や動植物にとって安全な場所となっています。川の両岸には700本を超すハマボウが自生していて、夏には黄色い可憐な花が一斉に咲きます。冬になると越冬のためシベリヤから飛来する真鶴や国際保護鳥のクロツラヘラサギを見ることができます。
河口や干潟には、生きている化石であるカブトガニ、ハゼ、カニ、シジミなど多くの生物が生息しています。
なお、ハマボウは糸島市の花となっています。 

  ⑤ 前原開
現在は住宅地となっています。この地域は鎌倉時代においては海であったのですが干拓されたのが何時か資料がないため分かっていません。

⑥ 初川開
現在は住宅地となっております。ここも資料がないので明確な干拓時期が分かっていません。

⑦ 赤坂開(赤坂新田)
明暦2年(1656年)神在川の下流に3町6反が開かれ、希望者に分けられたとの記録しか残っていません。

⑧ 元禄開(泉川の右岸側(北岸側)・大石辺(へ)田(た)新田)
元禄10年(1697年)に完成しました。福岡藩の家老も参加していました。その後、太平洋戦争時にこの地域は戦時中に「小富士海軍航空隊」が開設されていましたが、戦後再び田圃に戻りました。

⑨ 元禄開(泉川の左岸側(南岸側)・荻浦新田)
元禄13年(1700年)に完成しました。建設時に大風や高波で何度も崩れたようです。伝説によると「幽心」と言う山伏が人柱になってからは治まったそうです。その後彼を弔うために石碑「地蔵大菩薩」を建てました。

⑩ 四町開
宝暦2年(1752年)に完成しました。

⑪ 宝暦開
宝暦4年(1754年)に完成しました。

⑫ 天保開(千早新田)
江戸時代の後期の天保4年(1833年)に潮留工事で築堤が完成しました。この干拓は幕府の指導によるもので詳細な役割分担や作業前の準備方法を記録した「汐留手続書」が残されています。日田の代官塩谷大四郎の訓令により、幕府農民は総出、福岡、中津、対馬領の村々よりそれぞれ千数百人の人達が出役し、加布里の東屋(末松政右衛門)と岩本の油屋(牛原藤蔵)が私財を投げ打ちこの干拓に貢献しました。また三人の設計者がいてその中には博多屋(廣瀬)久兵衛がいました。この廣瀬久兵衛は江戸時代の儒学者で教育者、漢詩人であった廣瀬淡窓の弟です。
この干拓工事を祝って当時の博多にある聖福寺第123代住職の仙厓和尚の力強い筆跡によるものが石碑に刻まれて現地に立っています。(説明板も近くに立っています)
なお出光興産創業者の出光佐三氏は仙厓和尚の絵を好み収集したので、東京の出光美術館ではそのコレクションが展示されています。 

⑬ 嘉永開(辺田潟干拓)
嘉永3年(1850年)に4千人が出役して工事が完成しました。昭和40年地名の「ヘタ」から「小富士」に変更しました。この地域も⑧元禄開と同様に「小富士海軍航空隊の基地がありました。

⑭ 嘉永開(寺山干拓)
寺山には既に堤防があったのですが、更にその海側を干拓したもので、嘉永5年(1852年)に完成しました。怡土、志摩の両郡全42村から4千人の人々が動員され、太鼓の音と共に作業が開始されました。この干拓工事の状況は、久家村組頭で干拓会計をした鎌田家には当時の記録と潮止の様子を絵にしたものが残っています。この絵図は「嘉永5年寺山干拓潮止図」として福岡、唐津、幕府の3領の境界を示した境界石「三領境石」と共に平成17年4月に糸島市指定文化財となりました。

⑮ 明治開
明治時代末、県は長野川の河川改修を行い、その終了ごろに天保開(千早新田)の東側に草が生い茂った3千立米の土砂があることが分かりました。土砂があることにより川の流れが悪くなるので撤去をすることになりました。当時の村長が耕地整理組合を発足させ、この土砂を利用して干拓をすることにしました。この干拓事業を進めて行くためには土砂の不足、県からの許可の遅れ、物価上昇などにより非常に困難な事業だったそうです。この工事については、計画準備の不足、資料が残っていないことからして江戸時代の人々の取り組みの素晴らしさが評価されます。なお、この工事が完成したのは大正時代の後半になってからでした。
以上の干拓の歴史について干拓地とその関係を示します。

   
3.参考資料
(1)多き稔りを求めて ―糸島の新田開発― 前田時一郎著
(2)新修志摩町史 平成21年刊
(3)前原町誌 平成3年刊
(4)糸島市文化財保存基本計画
(5)筑前西郡史 油比章祐著 福岡地方史研究会刊
(6)怡土志摩地理全誌 油比章祐著 糸島新聞社刊
(7)目で見る加布里の歴史
(8)その他 インターネット等


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