『糸島にある7つの国史跡』~国が指定した歴史・学術上価値の高い遺跡~
◇このテーマの背景
糸島にはいろんな時代の幅広い遺跡が沢山あります。その中でもタイトルのように国が指定したもの(国史跡)が7つあります。 古くは水田稲作の到来と共に朝鮮半島から持ち込まれた弥生早期の墓制(支石墓)“新町支石墓群”と“志登支石墓群”、次いで弥生終末期の方形周溝墓“平原王墓”、古墳時代になると100mを超える前方後円墳“一貴山銚子塚古墳”や北部九州最大の円墳“釜塚古墳”、律令時代には神籠石系山城“雷山神籠石”や中国式山城“怡土城”などで、糸島ならではの特徴ある興味深い遺跡です。

これらについては、【糸島魅力みつけ隊ネットワーク協議会HP】にも散発的に報告しておりますが、平成19年から88回に亘る多くの報告からの検索はやや煩雑で、また内容的にもイベントなどの紹介に重きを置いたものもあります。
そこで、本稿では切り口を替え、内容を少し補足すると共に7つの史跡を4つの時代区分に分け、検索しやすくしたものです【検索の仕方は末尾に記載】。
◇弥生早期
支石墓については簡単な報告に止まっていたので、少し内容を補足します。
糸島には支石墓の主な遺跡だけでも7ヶ所あります。糸島の特徴は、支石墓が大きい(国内最大の井田用会支石墓を始めとして)、玉類や石鏃(矢じり)などの副葬品があるなど、被葬者への権力の集中の兆しがみられることです。
さて、支石墓は凡そ2500年前、水田稲作の民が持込んだ朝鮮式ドルメンの碁盤型のものです。主として糸島や唐津、佐賀平野、平戸、島原などに散在しますが東側の福岡には僅かにある程度で、宗像、瀬戸内海地域には見当たりません。何故、糸島を東端にしているのか、その一方、水田稲作技術そのものは北上して行き、僅か100年余りで青森まで伝播します。何故、自分たちが持込んだ墓制をすんなり放棄したのか不思議です。
1)新町支石墓群
摩半島西側の御床松原にあります。ここには弥生早期の支石墓や土壙墓などが50数基発見されています。海浜地帯だけあって人骨の残りが良いものがあり、注目すべきは明らかに先住縄文人の形質を有する人骨(特有の風習的抜歯痕もあり)が認められたことです。水田稲作の渡来民が持込んだ墓制に縄文人が何故葬られて葉形磨製石鏃が大腿骨に打ち込まれ(闘いの戦死者となった)、その足下に少年の歯があり、集落間の激しい戦闘を窺わせます。この遺跡の一部は当時の発掘調査状況が分かるように新町支石墓群展示館にレプリカで再現しています(現物はその下1.5mに盛土で保存)。なお、志摩歴史資料館にはこの人骨(レプリカ)や甕棺、供献用の小壺などを展示、弥生早期の葬送儀礼を観察できます。
◎過去の報告:25年度 「船越万葉歌碑公園周辺の歴史ウォーキング」
2)志登支石墓群
もう一つは、前原の東風小学校の北東100mにあり10基が現状保存されています。この当たりは水田地帯で見晴らしもよく、糸島富士と呼ばれる可也山の眺望は素晴らしいものがあります(地形的なことは下記の平成28年報告「糸島水道という海峡はなかった」を参照)

この遺跡の特色の一つは縄文系被葬者の副葬品が何故か混在しており、弥生早期という過渡期の人種的混乱が見られます。

例えば6号墓の副葬品は縄文時代特有の不揃いの打製の石鏃であり(写真中)、紛れもなく縄文人が葬られているようです。ところが8号墓には渡来系の精巧な規格化された柳葉形磨製石鏃(写真右)が副葬され、渡来系弥生人であろうと思われます。新町の縄文人骨といい、志登の石鏃といい縄文末期~弥生前期にかけての過渡期の時代を色濃く反映し、日本人のルーツを考えさせる遺跡群です。
これら石鏃(現物)は伊都国歴史博物館に展示しています。
◎28年度 「糸島水道という海峡はなかった」
◎25年度 「国史跡”志登支石墓群“とその周辺の見所」
◎24年度 「糸島の古人骨は語るか?」
◇弥生終末期
怡土平野には、二つの川に挟まれた扇状地があり、このエリアからは弥生時代のいろんな遺構や遺物が集中することからここが伊都国の王都と言われています。ここには“わが国最古の王墓と言われる三雲南小路王墓”、“幻の王墓と言われる井原鑓溝王墓”、また、“最古の硯(すずり)が出土した三雲番上遺跡”などもあり、それを彷彿させるものがあります。しかし、“平原王墓”は、この中心地(王都)から西側1㎞程離れた曽根丘陵上(王都が望める東側でなく西側)にあります。なお、この王墓の周りには同時代の墳丘墓2基と古墳時代の小円墳2基もあります(盛土保存)。 さらに南側数百mには、次の3ヶ所の古墳も散在し、これらも一括して“国史跡曾根遺跡群”となっています。
なお、これら3古墳の“狐塚古墳”(円墳)、“銭瓶塚古墳”(前方後円墳)、“ワレ塚古墳”(前方後円墳)と平原王墓との関連性は不明であり、次項4)、5)の大型の2つの古墳に比べても格段に小形であり、また王都中心にある“端山古墳”(前方後円墳)や“築山古墳”(前方後円墳)と比べてもかなり小さく、3古墳の被葬者は大きな権力を有していたとは言い難い。以上より本稿では割愛し、平原王墓のみを紹介します。
3)平原王墓

わが国最大径の銅鏡5枚を始めとして総計40枚の銅鏡(わが国第2位の枚数)や豪華な玉類、鉄刀などの副葬品があり、平成18年に出土物が一括国宝になりました。これらは伊都国歴史博物館に展示しています。注目すべきは、この中に“耳璫(じとう)”(ピアス。中国漢時代では女性の墓からしか出土しない)もあり、被葬者は女性であり、王であろうと推察されています。この時期は女王卑弥呼が登場する凡そ半世紀前であり、数年前のテレビ歴史番組では“卑弥呼の祖母か母親?”と言及し大きな反響がありました。
◎25年度 「平原王墓と曽根遺跡群」
◎参考として、本協議会HP【歴史文化グループ】の表紙に、平原王墓や副葬品(一部)を掲載
◇古墳時代
魏志倭人伝に“伊都国には世々王あり”とある通り、弥生時代までは王が君臨した輝かしい時代でした。古墳時代になると大和王権から派遣された県主が統治し、もはや王は存在しません。平原王墓以降の1世紀、これという遺跡の発見はなく糸島の空白の1世紀と言えます。そして糸島に前方後円墳が出現したのは西暦300年頃、前原泊の“御道具山古墳”(定型形の箸墓古墳1/4相似形)を皮切りに次々と前方後円墳が出現し、糸島には60基以上が確認されています(福岡県内総数の約1/4を占める)。残念ながら大半は時代の流れで削平され、記録保存されたりして消滅しています。次の2古墳は大きさのみならず、石室構造や副葬品などにも特徴があり国史跡となっています。
4)一貴山銚子塚古墳
玄界灘沿岸で最大の前方後円墳(墳長103m)はJR一貴山駅から凡そ北へ100mの所にあります。4世紀後半の柄鏡型前方後円墳で、案内板の直ぐ背後には高さ10m位の丘が迫っています。それが後円部の墳丘です(墳頂へ登れます)。その墳頂部の後からくびれ部にかけて崖のような切通しになっているのは明治になり、住民が風通しに掘削したことによります。それを挟んでかなり先の前方部を臨むことが可能で、流石大きな古墳と実感できます。東側に隣接する古民家は、平成28年に糸島では初めて“国登録有形文化財椛島家住宅”(旧満生家住宅)になりました。墳頂からも家屋や庭の佇まいを垣間見ることもできます。
さて、この古墳の堅穴式石槨には10枚の銅鏡や沢山の武器類、玉類などが副葬され、大和王権との関わりの深い大首長であったことが推察されます。注目すべきは鍍金(金メッキ)した方格規矩鏡でわが国では珍しいものです。また三角縁神獣鏡8枚は、同氾鏡論(椿井大塚山古墳を頂点とし、全国の多くの被葬者に鏡を配布した支配儀礼)の契機になったことでも有名です。
◎25年度  「一貴山銚子塚古墳と満生邸周辺の歴史ウォーキング」
◎24年度  「玄界灘最大の前方後円墳 国史跡

5)釜塚古墳
北部九州最大の円墳(墳径56m)はJR加布里駅のすぐ南側にあります。5世紀前半の3段築成の墳丘でしたが、現在の墳丘形状は昭和40年ごろ蜜柑植樹のために5段の階段状に掘削したことによります。地元の小学生からケーキ山と呼ばれ親しまれていますが、この形状が歴史遺産として果たして如何なものかと思います。
さて、この古墳の特徴は周溝陸橋部の両脇に“石見型木製品”(木製埴輪とも言われ、大和を中心に畿内周辺に限定。九州では唯一の出土)が立っており、形状は権威の象徴である儀仗をかたどったものです。

近畿には、この儀仗にそっくりなモチーフ(木製埴輪形)を甲板に立てた船形埴輪があります(三重県宝塚1号墳)。また韓国には日本起源の前方後円墳に円筒埴輪や木製埴輪を混在させた古墳もあります(月桂洞古墳)。当時の釜塚古墳の立地性を考えると加布里湾が大きく湾入し、内外の船からこの大型の円墳を間近に臨めたのではないか。そこにこの木製埴輪が飾られていたことを併せ考えると海上交易権を掌る県主の墓とも推察されています。
また、石室構造が初期の横穴式石室(竪穴系横口式石室とも言われ堅穴式から横穴式への過渡期の構造)であることも特徴です。この木製埴輪(市指定文化財)および石室構造(模型)は伊都国歴史博物館に展示されています。
◎24年度  「九州最大級の大型円墳 国史跡釜塚古墳」

◇律令時代
朝鮮半島では百済の滅亡(660年)や白村江の戦い(663年)、高句麗の滅亡(668年)、中国では安史の乱(755年)など東アジアの国際情勢は緊張度を増し、西日本には国防の観点から20数城もの古代山城が築かれます。糸島には2つの山城、一つは記録に全く残っていない“雷山神籠石”、もう一つは詳しい記録がある“怡土城”が築城されます。 なお、この二つは20年度の活動報告に詳述しているので、ここでは簡潔に記します。
◎20年度  「糸島の巨大な古代山城を訪ねて 国史跡雷山神籠石」
7)怡土城
大宰府の護りとして築かれた広大な怡土城(凡そ300ha)については、続日本紀に築城担当者や期間、さらに防人まで動員したことを明確に記しています。
これまでの山城と異なる中国式山城の趣を有するものと言われ、長年の遣唐使留学経験を有する吉備真備の兵法から築城したものと推察されます。
それから凡そ5世紀の後、元寇の時には第5望楼近くの海岸に防塁が築かれ激しい攻防もあり(望楼近くには蒙古兵の首塚あり)。しかし怡土城は使われなかったようです。爾来、紆余曲折あり高祖城と呼ばれ、守護大名の大内氏(周防・長門)の博多支配の端城となり、最終的には国人の原田氏の居城となりますが、秀吉の九州征伐軍と対峙したことにより、破却・廃城となっています。
ここへは伊都国歴史博物館から東へ1㎞弱、高祖神社参道口には案内板があり、直ぐ横の階段で土塁にも上れます。そこには怡土城址の大きな記念碑(皇紀2582年建立の銘)がありその土台の隅角には城門の礎石が3個組み込まれています。少し離れた所の土塁断層には版築工法跡を見ることも可能です。
次の報告には高祖神社(三代実録には877年の古い記録あり)なども紹介しています。
◎20年度 「糸島の巨大な古代山城を訪ねて 国史跡怡土城跡」

検索方法
以上の7つの国史跡については、次の検索方法でご覧願います

検索の仕方は、
① インターネット検索画面に【糸島魅力みつけ隊ネットワーク協議会】と入力する。
② そのHP上の【歴史文化グループ】をクリックする。
③ 現れた画面上部の欄の【フィールドワーク】をクリックする。
そこには、各年度に分類され、平成28年度~19年度までのすべての報告名が 列記されています。 
④ 以上に紹介した【 ◎・・年度 「・・・・・・・」 】をクリックすると その内容がご覧になれます。


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