『糸島の領境石(国境石を含む)を訪ねて』
日時・場所
平成27年2月

 〜今も残る江戸時代の遺跡〜
はじめに

領土は領主の年貢の取り立てや水利権確保のために必要なもので、その境界として山の尾根、川、道を基本としていました。江戸時代に幕府は国境をはっきりするため、正保元年(1644年)各藩に命じて「各領内絵図」(正保の国絵図)を作らせますが、これもお粗末な図であり現地との関係もはっきりしなかったために、各地で国境争いが起こりました。福岡藩では16の国境争いがあったそうです。 その中での最大の

紛争が筑前国の福岡藩と肥前国の佐賀藩との間でありました。脊振山は古代より山岳密教の修験道として栄えていましたが、南北朝以降の戦乱で衰微していきました。江戸時代になり、世の中が平穏になってくると脊振山信仰が復興してきました。そこで脊振山一帯を巡っての境界争いが天和3年(1683年)に起こったのです。両国で話し合いを始めたのですが決着がつかず、ついに幕府が元禄6年(1693年)に国境検分使2名を含む150人ほどを派遣し、両国の村民や藩から聴取し、現地調査も終え、同年に筑前国の敗訴の裁許(判決)を下しました。10年の歳月がかかり、両藩とも2万石(10〜15億円)ほどの費用がかかったそうです。

境界を巡り江戸幕府に調停を仰ぐことが各地で起こったため、更に幕府は元禄10年(1697年)に「正保国絵図大改定(元禄の国絵図)」を行うことになりました。これを期に各地に内在する国境争いが一気に噴出することになりましたが、問題解決のため両国の境目奉行、郡奉行等を中心に国境確定交渉が行われ始めました。
確定した国境は、初期には松の木を植えて目印としましたが、枯れたり、倒れたりと不都合が生じてきたため、改良を重ねて現在残っている石造りの国境石になりました。
糸島地域(怡土郡西部)は、転封された大名の石高調整の場としての意味合いが強く藩領が度々入れ替わり、その都度村々は境目をめぐり大変苦心したようです。特に江戸時代後期の文政元年(1817年)より福岡領、幕府領、中津領、対馬領の4つにもなり大変だったようです。

現在(平成27年1月)、郷土史家の前田氏によると糸島市に国境石が2基、領境石が101基見つかっているそうです。そこで、私たちは糸島に点在する境界石を尋ねることにしました。そのうちの一部を報告します。

三瀬峠にある国境石
202号線佐賀県境の国境石
宮地嶽神社に近い所の領境石

「從是南御料」「従是東福岡領」「從是西北仲津領」と刻んでいます
荻浦神社の東側

「従此川中央東北福岡領」「志摩郡荻浦村抱」「文化元年戊寅九月建之」「由比氏顕之碑」と刻んでいます
雷山北水門の近く

「此道より東福岡領」と刻んでいます
雷山北水門の上

「境」と刻んでいます


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