フィールドワークによる地域資源を把握する活動をします。

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23年度FWテーマ学習会 糸島の伝承 来目皇子と糸島 
深江神幸祭行列
日時:平成23年11月8日
火山(234M)北側にある来目(くめの)皇子(みこ)の遺跡の学習会を行いました。
1.来目皇子とは
来目皇子は、父は用明天皇。母は穴穂部間人皇女。聖徳太子は同母兄。(来目・・・「人名」 久米・・・「部・氏・地名」に使用)
名前の由来は、七歳のとき眼病を患い久米寺(大阪)に誓願。 
「薬師瑠璃光如来」がご降臨され治癒。
「眼が帰ってきた」ことから「来目皇子」と名づけられたそうです。

野北漁港(当時の軍港か?)
2.新羅征討
推古天皇10年(602年)2月、来目皇子は新羅征討将軍として諸の神部(かんとものお)及び国造・伴造等、軍二万五千を授かり、筑紫の嶋郡(糸島市志摩)に向けて出港、船で軍粮(ぐんりょう)を運んだとの事です。(『日本書紀』)
同年4月嶋郡に屯営、6月に病に臥し新羅への進軍を延期。征討を果たせぬまま、翌年(603年)2月4日、筑紫にて薨去。現在、同墓は大阪府羽曳野市羽曳野三丁目の塚穴古墳(方墳・一辺約50m)に比定され、宮内庁の管理下にあります。

来目皇子遺跡地
3.来目皇子駐屯の目的
(1)朝鮮半島政策・・・大和朝廷は、百済・任那の権益に固執。新羅征討は欽明天皇の遺詔(天皇の遺言)。
(2)内政課題・・・豪族を抑え、中央集権国家体制を早急に築く必要があった。
4.来目皇子の役割
(1)「撃新羅将軍」の任命を受け新羅征討を遂行すること。
(2)筑紫における「大和政権の確立」。
二つの役割を担った来目皇子ですが、(2)の筑紫における「大和政権の確立」が本当の役割だったのではないでしょうか?

綾部神社
5. 綾部神社
来目皇子は、忍海(おしぬみ 奈良県葛城市忍海)に住んでいた漢人(鍛冶技術集団)たちを現在の佐賀県みやき町に住まわせ兵器を造らせたそうです。そのことからこの地方を綾部郷と名づけた、とあります。(『肥前国風土記』)(漢が綾の地名に変わる)
当神社は、「風の神様」を祭る神社。また、日本最古の気象台と言われ、旗のなびき具合で風雨の襲来や農作物の豊凶が占われています。神社近くの鷹取山に古代の製鉄所があったとのことです。
6. 久米遺跡-細形銅剣・銅戈が出土した甕棺墓群-
久米集落近くの丘陵上にある弥生時代中期の遺跡

←市文化財指定銅剣・銅戈

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