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糸島富士と日光東照宮の大鳥居
糸島の可也山に残る江戸初期の石切り場と今、明らかになった近世の貴重な歴史遺産…(高瀬哲郎)
約四百年前、福岡藩初代藩主の黒田長政公は、神君徳川家康公を祀った日光東照宮に天下第一の大鳥居を寄進しています。それは、郷土福岡の巨石で造った大鳥居を日光まで運び、建立するという前代未聞の壮大で画期的な事業だったのです。
日光東照宮大鳥居
現在、世界遺産である日光東照宮の表門の前に、この大鳥居(石華表)が堂々とそびえ立っていますが、その柱には次のような銘文がしっかりと彫り込まれています。
奉寄進 日光山 
東照大権現御寶前石鳥居者 於筑前國削鉅石造
大柱而運之南海以達于當山者也
元和四年戊午四月十七日  黒田筑前守藤原長政
意訳:神君家康公を祀る東照宮の石鳥居は、筑前国から採った巨石を削り出して大鳥居(大柱)を造り、南海を運搬し、日光山に寄進したものである
元和四(1618)年四月十七日 黒田長政

この石を切り出した場所こそが、糸島富士と呼ばれる可也山です。そこで、この山のどこから、日光東照宮へ寄進する大鳥居の石材を切り出したのか、石切り丁場はどこだったのか、一帯の状況はどうなのか、その跡は今でも残っているのかなど、それらの検証を試みたのが、今回の調査の主旨です。

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1.日光東照宮大鳥居について
1)時代の背景

1)時代の背景
長政公が福岡の地を領知され、中津から入部したのは関ヶ原の戦いが終った1600年のことで、当初は名島城(福岡市東区)へ入城しました。

その後、1603年に徳川氏による幕府が成立しますが、全国的には不穏な状況が続いており、1604年には長政公も何らかの意図をもって、福崎(福岡)の地に新たな城を築き移っていきます。

幕府は、諸大名のそのような混乱も鑑みてのことか、重大な懸念である豊臣家(秀頼と母淀殿)に対し、1614~15年にかけて大坂冬の陣・夏の陣を起こして滅亡へと追い込み、政権の安定を図っていきます。

その直後には、一国一城令や武家諸法度なども発しているのです。しかし、翌1616年には、その家康公も亡くなってしまいます。

このような江戸時代初期の激動から安定へと向かう流れが感じられていくなかで、1618年、長政公は日光東照宮へ大鳥居を寄進しております。
 
2)大鳥居寄進の意図は?

2)大鳥居寄進の意図は?
日光東照宮は、久能山に埋葬された家康公を神と祀る神殿として建立されました。

その最も権威のある東照宮の門前に、黒田長政公が大鳥居を寄進した趣意としては、もちろん、故家康公の恩顧に報いるとともに、豊臣氏亡き後、幕府への忠節を如実に示す思慮があったことは確かですが、その一方で、全国の諸大名に対しては福岡五十二万石の大藩の盟主として、自らの存在感を明示することをも意図したものと思われます。

そのため、遠く離れた自らの領地福岡で産出した石をわざわざ持ち運び、可能な限り堂々とした威厳を示すほどの天下第一の大鳥居として奉納することを計画したものと推察されます。

また、逆に幕府側の立場としても、九州の大藩である福岡藩、それも豊臣秀吉公の名軍師として知られた黒田如水公の跡を継いだ長政公が、大鳥居を奉納して恭順の意を示すことは、全国への諸大名に対しても暗黙の圧力となる思惑があったのかもしれず、東照宮の門前に建てることを許したとも思われます。
 
3)志摩郡の可也山

3)志摩郡の可也山
福岡藩五十二万石の領地は、東端は黒崎宿(小倉城西側の八幡西区)、南端は原田宿(筑紫野市)、そして西端が糸島半島の付け根となる前原宿が、それぞれ他藩と接していました。現在、福岡市の西側に隣接する地域は、糸島と呼ばれていますが、江戸時代には福岡藩の怡土郡と志摩郡があった最西端の領地でした。その西隣りは寺沢志摩之守広高が治めた唐津藩で、南側には筑紫山脈が連なり、それを越えると佐嘉〈佐賀〉藩の領地となっていました。北側は玄界灘になり、そこに大きく突き出ているのが、この糸島半島になります。

筑前国近世所領図 元禄頃1688年
(山崎治樹氏所蔵)

このような広大な領地の最西端に位置する糸島半島、しかも可也山(標高365m)の山腹から日光東照宮大鳥居の石が切り出されたのです。この一連の状況に関しては、幾つかの古文書にも示されていますので、歴史的事実とみて、間違いないようです。


 
4)大鳥居運搬の方法とコース

4)大鳥居運搬の方法とコース
当時の運搬方法からみて、60トンを超える大鳥居の石材を安全に目的地まで運ぶことは困難を極めたと思われます。さらには、道中の万が一の事故による破損などを考慮して2基分を運搬したという記述もあるようですが、その真偽は確かではありません。
運搬コースを推察しますと、可也山から切り出した石を急峻な山腹から裾野に慎重に降ろします。当時、南麓には波止場という地名があります(今は、立派な田畑が広がっていますが、江戸時代中期の干拓前までは可也の海と呼ばれた入り江になっていたようです)。おそらく、ここから大船に載せ、荒波で知られた玄界灘を東ヘ向かい、関門海峡からそのまま南下して四国沖の南海を通過し(あるいは瀬戸内海に入ったとの説も有り)、紀伊半島の南端の熊野灘の沖を通り、さらに大海原の太平洋を航海し、江戸(東京)湾に入っていったようです
そして、江戸川(隅田川説もあり)から千葉県境の利根川、栃木県の渡良瀬川、思川へと遡り、上陸してからは修羅(シュラ)という木製のソリに載せ、牛や大勢の人々が引いて運んだといわれています。日光山の山道では、相当に困難を極めながらも、東照宮へ無事にたどり着いたと思われます。その可也山と日光東照宮の間の距離は、おそらく1400kmを越えるものであり、当時としては信じられないほどの想像を絶する移動の距離です。

 
5)鳥居の概要

5)鳥居の概要
大鳥居は、形式としては笠石の下に島木が付く、いわゆる明神鳥居です。その石材の構成は、笠石を3個、貫も3個に分割し、その真ん中に額束を置き、柱は2本継ぎで計4本としています。全体の高さは約9m、笠石の幅は14m弱と、横方向の規模を大きく採る形状です。笠木・島木は両端に向けて全体がゆるやかに反る総反りとしており、鳳凰が翼を大きく広げたようなイメージをみせています。

また、大柱の直径は1m余りで、上端までもほぼ同じ大きさとし、すぼまり(先にいくほど細くなる)はほとんどありません。両柱の転び(内側への傾き)もほとんど無く、ゆったりと堂々とした構えとしています。 また、この大鳥居を造るための石材として、例えば、大柱一個には少なくとも長さ4~5m・縦横の厚さ1mほどの方形石(約13.5トン)が必要となりますので、当初に切り出した用材の全体重量としては、100トンを超えていたのではないかと推測されます。

2.可也山について
1)富士山に似た独立峰

1)富士山に似た独立峰
可也山は富士山にも似た独立峰で、“糸島富士あるいは筑紫富士”とも呼ばれ、糸島のシンボルとなっています。
古くは、遣新羅使がこの山を“可也の山”として詠んだ歌も『万葉集』に選ばれるなど、人々に知られていた山です。
その山容は、海岸線近くから山裾が立ち上がり、すっきりとした秀麗な景色を為しており、遠く福岡市や唐津市からもあの山が可也山であると、はっきり確認できます。

また、山頂からも、玄界灘を間近に唐津の先の呼子方面の島々、さらには壱岐の島までも望めます。
なお、山の標高がちょうど「365m」でもあることから、地元では「1年山」とも呼ばれており、ハイキングのコースにもなっています。

 
2)山のほとんどは花崗岩

2)山のほとんどは花崗岩
地質的にみると、この可也山は、裾野から9合目付近までが火成岩である花崗岩、頂上部一帯が火山岩の玄武岩から成っており、太古の時代には火山の噴火があった面影を色濃く残しています。その花崗岩は、岩石としては糸島花崗閃緑岩といわれ、石英と長石が主成分で、残りの1~3割が黒雲母などの有色鉱物から成っています。日光東照宮大鳥居となったのは、この花崗岩です。


 
3)鳥居などの石材に適した花崗岩

3)鳥居などの石材に適した花崗岩
花崗岩は、火山が多い日本では各地に普遍的にみられる岩石です。硬くて頑丈なものが多く、風雪にも耐えうる利用価値の高い石ということで、古くから、古墳の石室・城の石垣・建物の礎石・石仏・狛犬・鳥居や灯篭などの石材に幅広く使われてきました。

しかし、このような石造物の製作の条件として、岩石からの切り出しや石採りが煩雑でなく、運搬し易い立地・地形であること、さらにはいろんな形状に加工し易いものでなければなりません。

ところが、すべての花崗岩がその条件を満たすものではなく、その生成した状況や風化の度合いによっては、不純物が多くて崩壊し易く、ぼろぼろに壊れてその石材として選択する技術も必要になります。昔は、特に石工といわれる方々は、緻密な細工の技・石垣とする積む技だけではなく、石材を調達する熟練した経験によっても、職人としての仕事を支えていたのでした。

3.可也山石切り場について
1)史料に記された可也山の石切り場

1)史料に記された可也山の石切り場
可也山は周囲およそ10km程度の山ですが、この山のどのあたりから切り出されたのかについて、まず、主な文献を確認してみます。

『黒田家譜』
この史料は、藩主黒田家の事績を記したものであるが、その元和三(1617)年二月二十一日の条には、「長政日光山へ鳥居を建立し奉らんため、筑前国志摩郡親山にて大石を撰び鳥居に作らせ、大船にのせて南海を巡らし、武州隅田川より川船に移し、栗橋まて利根川をのぼせ、古賀より陸地をやり、宇都宮を通りて日光山へ着。」とある。(なお、この先例にならってか、幕府が二代藩主忠之公に対して、再び鳥居を奉納させている。その寛永三(1626)年の条には、「江戸(城)紅葉山の神前に鳥居をたてんため、石を筑前志摩郡可也山にとり、家臣竹森清左衛門貞幸奉行して船に乗せ、南海を漕めくらし江戸にいたり、九月十七日紅葉山の神前に立らる。是長政の時、日光山東照宮の神前に石の鳥居を立られし例にならひてなり。」とある)
『竹森家記』
大鳥居を運搬し、日光東照宮に据え付けるまでの現場を陣頭指揮したのは、黒田氏の家臣竹森清左衛門貞幸です。その竹森家の記録によると、「我が長政公、本国の土産を以て封国之恩厚に謝んと欲す矣。巨石を本国の志摩郡御山に於いて取り、之を琢磨し大船に於いて載せ、南海於て数万里之大洋を杳廻り、而して、武州隅田川に於いて達す。既に之を赤氊吉を以て包み、之を重車を以て載せ、日光山数千里の遠くに於いて輸す也」とみえます。ここで留意すべき点は、可也山(親山)とは書かずに「御山」と崇高な表現になっていることです。
『明良洪範』(巻五)
江戸時代に著されたこの伝記的な史料によれば、「領国筑前志摩郡小金丸村の南山に大石有ば夫を切り出し」とあります。この言葉通りに解釈すると、可也山の北東側に位置する小金丸村の親山地区あたりの山中から切り出されたと読み取ることができます。
『筑前国続風土記』
貝原益軒が編纂したこの書(黒田家譜のあとに編纂した)によると、「親山といへとも、実はかやの山なり。・・・石をとりし所は、諸吉村の上にあり。それより山の南、辺田村の東に出して、船にのせしと云。此山の側に、今も猶大石多し。福岡警固大明神の鳥居、桜井與止姫大明神の鳥居も此山より出たり。」と記し、可也山の南東側の山から切り出されたことが具体的に書かれています。

 
2)可也山石切場の現地調査の状況

2)可也山石切場の現地調査の状況
可也山には前述しているように、古い文書には大鳥居を切り出した石切場の場所として、「親山(御山)」と「師吉」の二箇所の地名を確認できます。

この互いの地点は、距離としては1kmほど離れており、隣村同士の場所となりますが、そのどちらの3~5合目以上の山腹に石切り場跡らしき痕跡があり、現在でも花崗岩を切り出した後の残石がかなりの範囲で散見されます。今回は、これらの場所を重点的に踏査しました。

 
2)・石割りの矢穴から推定できること−1

二箇所のどちらの地域にも、矢穴が多くの石に残っていることから、これらの場所が石切り場だったことがわかります。その矢穴の形状・大きさなどが、それらの地域の石採り場を比較検討する手掛かりとなります。


まず、石切りの工事ですが、目的に合致する石を切り出すには、矢(鉄製の楔状のもの)を入れるための穴をノミで穿ち、そこに入れた矢を玄能(ゲンノウ)で敲き込んで石を割るという作業工程を採っています(ノミ、矢、玄能のセット)。このノミで彫った穴(矢穴という)については、石割道具の時代的な変化とともに形状が変わっていることが分かっていまして、例えば、城の石垣を盛んに築き始めた四百年ほど前(桃山時代以降)の矢穴は大きいのですが、江戸時代には次第に小さくなる傾向があり、さらに、近代以降は豆矢と呼ばれるほどの形となっていきます。この矢穴の変化を追っていくことで、石を切り出したおよその時代を推定できるのです。

 
2)・石割りの矢穴から推定できること−2



 
2)・親山地区の調査状況−1

2)・親山地区の調査状況
まず、小金丸親山地区ですが、地元の方々の聴き取り調査では、可也山の北側中腹に虚空蔵堂というお堂があり、その背後の山間部一帯には石を割って、採石した後の残石が多数みられるということでした。現地を実際に踏査しますと、確かに、かなりの広範囲にわたって石が散在していました。ところが、石を切り出すために穿った矢穴はいわゆる豆矢のもので、そのサイズも幅3~6cm・深さ3~6cmほどで小さいことから、古くても江戸後期以降か、ほとんどは明治・大正あるいは昭和にかけての石採り場だったのではないかと思われます。


 
2)・親山地区の調査状況−2


 

 
2)・師吉地区の調査状況−1

2)・師吉地区の調査状況
「師吉村の上」という場所については、可也山の頂上へ至る登山道をたどっていくと、その7~8合目に「石切場」という標識が設置されていますので、以前から知られていたようです。その場所には、3~4mほどの見事な大石が転がっています。 観察しますと、その石の右端には矢穴が連続してみられることから、確かに石を切り出した後の残石であることが分かります。しかし、この矢穴 は親山地域と同様に小さなもので、豆矢と呼ばれる大正~昭和にかけての技術によるものと推定されました。ところが、この大石の腐葉土に埋もれた下側には、歴史的な「石切場」を示す大きな矢穴(幅10~12cm・深さ10~14cm)が、やはり連続して見え隠れしていたのでした。大変に古式の矢穴であり、おそらく江戸初期にも遡る特徴の矢穴であると推定されます。さらに、この周辺にはこの古い矢穴と同様の痕跡をもつ残石が数多く散在していますので、一帯が当時の石切り場だったことは間違いありません。

 
2)・師吉地区の調査状況−2



 
2)・師吉地区の調査状況−3



 
2)・師吉地区の調査状況−4



 
2)・師吉地区の調査状況−5

また、この石切場から50~100m西側の尾根筋には、昔、観光用のリフトが通った場所があります。現在は、リフトは撤去されており、この辺り一帯は私有地となっていますが、この敷地内への立入り許可を得て、広範囲にわたり調査をしました。

この辺りの山地はかなり急峻で、傾斜度が55度を超える所もあり、その上、ほとんど人は立入らない山間部の樹木が行く手をさえぎるなど、踏査はかなり厳しかったのですが、そこに新しい矢穴を有する残石から大変古い矢穴を持つ残石がかなり散在していることを発見できました。

このような調査の成果から、史料に示されていた石切場が展開していたのは、この師吉地域の一帯であろうとの確信を得ることができました。


 
2)・師吉地区の調査状況−6



 
2)・師吉地区の調査状況−7


 
3)師吉地区の石工さんからの聴き取り−1

3)師吉地区の石工さんからの聴き取り−1
さらに、調査の過程のなかで、師吉村で代々石の切り出しを家業とされていた吉村重輝氏(昭和8年生)から、貴重な可也山の石切りに関する話をお伺いすることができました。氏は、現在では可也山の石の切り出しを語れる最後の石工さんと思われます。


 
3)師吉地区の石工さんからの聴き取り−2

・少年の頃は、大きな石が一帯に沢山残っており、奥の方の大岩は足場が悪いために切り出さなかったが、4間サイズの石を切り出したこともあった。今、ほとんど見かけないのは自分たちが切り出したからであり、その後に埋まってしまったものもあろう。
・この辺りの山腹から麓にかけては、昭和30~40年代には観光リフトがあった。現在は私有地内になっているが、この辺りからも広く切り出した。また、ここにも大きな古い矢穴がある石があったが、これらも昔の石の残石であろう。
・昭和30年代になると、良い石が無くなってきた。吉村家では代々、日光東照宮大鳥居を切り出した残石には手をつけるなと言われていた。しかし、良い石が少なくなり、古い矢穴がある石も徐々に割って切り出した。その後、良い石はほとんど取り尽くしてしまったので、自分の代で石屋を辞めた。
・可也山師吉登山道の7~8合目付近にある「石採場」の大石は、四百年前の日光東照宮大鳥居の残石と思っている。

・この石の大きな矢穴が下端になっているのは、自分がこの石の半分を切り出した時にひっくり返したものである。右端側の小さな矢穴跡は自分が割った時のものである。この石は使える部分のみ切り出したが、残した石は良質でないようなので、そのままにしておいた。

 
3)師吉地区の石工さんからの聴き取り−3


・この石自体は、四百年前にも目に合わせて割ったものではなく、切り出しながらも不要の石として放置されたものではないかと思う。
・1年半前に日光東照宮の大鳥居を見に行ったが、一目で可也山の石であることがわかった。可也山の花崗岩の特徴が良く確認できた。
・可也山の石は、石の目(へき開)がよく見え、石工にとっては扱いやすく、L字形に割ることも可能なほどの良い石材である。
その他の石工衆では、永石砥助氏(大正6年生、前原市神在在住)、柴田好郎氏(大正14年生、前原市井原在住)からも糸島や可也山、高祖山の古い歴史にまつわる多くの話を伺わせていただき、同じような石切り作業に関するイメージを得ることができました。なお、永石氏は、江戸時代から知られた「肥前(佐嘉)石工衆」の系譜をもつ家柄の石工さんで、祖先の方の作品はこの前原市だけではなく、佐賀県小城市などにも多く残されています。

 
4)江戸初期の石切り場跡が残る可也山は貴重な歴史・土木遺産−1

4)江戸初期の石切り場跡が残る可也山は貴重な歴史・土木遺産
可也山は富士山のような山容であり、その裾野から立ち上がる斜面の傾斜度はおよそ20~40度、急峻な場所では55度にもなります。今日、可也山に昔の石切り場跡が残っているのは、この山が独立峰であり、しかも石材の運搬が困難な急傾斜の山腹、高いところでは八合目にもあったからだと思われます。

全国的にみても、城石垣の石切り場としては、これまでに江戸城関係の伊豆半島区域、大坂城関係の瀬戸内諸島・六甲山区域、金沢城関係の戸室区域などしか知られておらず、この九州でも、最近になって福岡県行橋市の沓尾山や佐賀県唐津市浜玉町の黒田山から、遠く(徳川期)大坂城へと運んだと確認されているほどであり、大規模な石切り場として確認された箇所はきわめて少ないようです。

 
4)江戸初期の石切り場跡が残る可也山は貴重な歴史・土木遺産−2


このような状況の中で、城郭石垣の事例とは違って、江戸時代初期に鳥居という石造物を日光東照宮まで運び込むなどという所業は、前代未聞の出来事といわざるを得ないものです。その点において、石材を千数百kmも離れた距離まで運搬した事例は、歴史上あるいは交通史上でも、この可也山の場合を除いては見当たらないようです。その意味で、今に残る可也山の石切り場の遺跡は、ほとんど解明されていない近世における物資(石材)調達の在り方、そして陸上運搬の方法や海上の遠洋航路の取り方などを探るうえで貴重な歴史遺産であり、地域のみならず、我が国の大切な土木・産業遺産であるといえるのではないでしょうか。

4.藩主黒田氏が寄進した糸島の鳥居
・桜井神社の鳥居

福岡藩主黒田氏は、日光の東照宮大鳥居の他に、この糸島にも数多くの鳥居を寄進しています。それらの鳥居の柱にも、銘文とともに寄進者の名前などが彫り込まれていますので、ここに紹介しておきます。

桜井神社の鳥居<糸島郡志摩町桜井>
2代藩主忠之公が、寛永八(1631)年に寄進されたもので、見上げるような大きな鳥居です。しかし、これほどの鳥居でもその高さは5mほどですので、9m超を誇る日光東照宮の大鳥居がいかに巨大か想像されます。そして、この鳥居だけではなく、神池の護岸石や太鼓橋の橋台など、桜井神社に残る数多くの石造物が、同様に可也山から切り出された石材を使っていることも確認できます。やはり、可也山の石は大変に貴重だったのです。
なお、ほとんどは江戸時代の採石と思われますが、矢穴の形状が若干違いますので、それら石垣の一部は後に修理もされたようです。


 
・警固神社の鳥居


(警固神社の鳥居)<福岡市中央区天神>
忠之公は、警固神社にも鳥居を一基寄進されていますが、その石材を観察しますと、岩石組成の特徴から、これも可也山の石材を用いて造ったと判断されます。やはり、福岡藩は、可也山の石材が最良のものとして認識しており、採石を繰り返し命じていたことがわかります。
 銘文「国主筑前侍従源朝臣忠之建立」
「示旹寛永第十六年巳夘中冬上旬」

 
・高祖神社、雷山千如寺の鳥居

高祖神社の鳥居<前原市高祖>
4代藩主綱政公が寄進されています。この高祖神社の創建は大変に古く、国史の『三代実録』にもその存在が記されています。また、この背後の高祖山には、古 代に怡土城が築かれ、さらに、中世から戦国時代には領主の原田氏が高祖城を構えるなど、地域の中核となる伝統的な場所であったこともうかがえます。
 銘文「筑前州牧賜松平姓源朝臣綱政」
   「元禄六祀癸酉初夏吉祥日剏立」

雷山千如寺の鳥居<前原市雷山>
6代藩主継高公が、鳥居を2基寄進されています。千如寺は、明治元年までは神仏習合の神宮寺だったところです。また、ここは、福岡藩黒田氏の雨乞いの祈願所だったともいわれています。なお、雷山山頂近くには、かつての神宮寺であった頃の上宮跡に、花崗岩で造った三基の堂々たる石宝殿が建っていますが、これも同じく継高公が寄進されたものです。
 銘文
「□□筑前国主従四位下幷左近衛権少将源朝臣継高建立」「寶暦三癸酉年三月吉祥日」

 
・雷山千如寺の鳥居


雷神社銘文「筑前国主従四位下幷左近衛権少将源朝臣継高建立」
「寶暦四龍飛甲戌夏五月吉日」
石宝殿銘文「筑前太守四位少将継高再建」「寶暦三癸酉年三月吉日」

調査の成果から
 

可也山の現地調査や地元の方々からの情報提供、石工をされていた吉村重輝氏からの聴き取り、さらには、様々な文献などから判断して、次のような結論を得ることができました。
・日光東照宮大鳥居を切り出した可也山の場所は、史料としては二つの地域、親山と師吉地域とが記されています。これについては、筑前国続風土記にあるように“親山といえども可也の山なり、石をとりし所は師吉村の上なり”と述べていることから、現状としては師吉地区が有力と考えられます。
・踏査の結果をみても、親山地域には、比較的新しい時代の矢穴しか発見できませんでした(さらに詳細な踏査で、発見できる余地は残っています)。一方、師吉地域からは大変古い形状の矢穴をもつ残石が発見できたことは、師吉説が有力であると考えられます。
・師吉地区の山腹に散在する矢穴が残る石は、矢穴の形状や大きさから判断して、四百年前の江戸初期にまで遡る技術として認められます。
・従って、それら古い矢穴が残る石採り場が、時代的には日光東照宮大鳥居を切り出した場所であることも否定できないと推定されます。
・吉村重輝氏からの聴き取りでも、この日光東照宮大鳥居の残石には手をつけるなとの言伝えがあり、これを裏付けているようです。
・このような江戸初期にまで遡ることができる石切り場跡は、城石垣としての事例も少ないなかで、その産地がほとんど確認できない鳥居という石造物の事例としても、大変に希少な遺跡です。
以上のような調査成果から、当時の遺構そのものを残す可也山は、地域における貴重な産業遺跡であるだけではなく、日本史上の出来事にも記録された場所としても、見直す必要があるようです。

参考文献
・山村信榮「筑前黒田藩と石鳥居の奉納」『大日光66号』 日光東照宮、1995
・『太宰府天満宮参道―鳥居解体に関する調査―』太宰府市の文化財第19集 太宰府市教育委員会、1993

謝 辞
 

本調査においては、地元の多くの皆様に大変お世話になりました。特に、次の方々からはそれぞれの分野において一方ならぬご尽力を賜りました。衷心より、厚く感謝申し上げます。

可也山の親山や師吉地区の現地踏査について
小島周三氏・吉村栄次氏・吉塚勇雄氏
可也山師吉地区の石切りについて
代々石工の吉村重輝氏(当時の石切り場の写真、石切りの道具などの提供) 牧園陽一氏
糸島の石工業について
柴田好郎氏(石工)・永石砥助氏(肥前石工の末裔、石工)
石造物に関する資料について
河合修氏(志摩町教育委員会)・吉留一雄氏(志摩町史編纂室)
鬼塚智子氏(志摩町歴史資料館)・山村信榮氏(太宰府市教育委員会)
前田時一郎氏

特に、庄野寿彦氏・清崎重信氏(糸島魅力みつけ隊ネットワーク協議会)には、度重なる現地での踏査並びに聴き取り調査をはじめ、数多くの資料の取りまとめなど、本調査の全般において、終始、多大なるご尽力・ご協力をいただきました。今回の報告ができましたことは、ご両名の方のご助力・ご助言のたまものでありまして、厚く御礼申し上げます。 (平成21年3月 記)  
                        


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