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糸島竹ノ越山(163高地)「防空監視哨 聴音壕」調査
調査場所:糸島市西貝塚竹ノ越山 頂上
昭和の時代に入ると満州事変、上海事変などが起こり、大陸情勢は騒然となってきた。また、航空機の発達は、防空思想の普及徹底を促し、防空能力の重要性が叫ばれるようになった。防空演習は、軍部官民の合同で既に始められた。関門・北九州工業地帯・県都福岡一帯を東京大阪に次ぐ心臓部とし、北九州は、第一に敵機の空襲の洗礼を受ける地勢にあるとされた。仮想敵機の進路は、当然糸島上空あるいはこれに近い空域になると想定された(糸島新聞)。
昭和9年(1934)6月7日の糸島新聞は、軍部・県・市町村・警察・消防等からなる北地区地方委員会で、永久監視哨を前原と宮浦に設置することや、監視は一組7人とすることなどを決定した、と報じている。他県に先駆けての防空対策とみられる。その後、監視哨設置の位置は二転三転し、そのうちの一ヵ所が芥屋村と小富士村の境界付近に位置する竹ノ越山頂(163メートル)に設置されるのである。
昭和12年4月5日の「防空法」制定のあと本県では、「福岡県防空監視隊服務規程」を定め、防空監視業務に当たることになった。防空監視哨は、県下の海岸線や山岳地帯に設けられ、その運営業務に関しては、当該警察署長が管掌した。監視哨には警防団員や水難救助隊員がその任に当たった。また、福岡県議会史によると、昭和13年度の防空対策の項に防空監視隊費、哨舎維持費、防空設備資材費等の予算計上されている。
当時、小富士尋常高等小学校に在籍した児童は、岐志山崎から竹ノ越山頂へ監視哨建設資材のレンガを、奉仕作業で運び上げたことを鮮明に語っている。以上のことから監視哨は、昭和13年の4月から7月ごろまでの間に建設されたものと考えられる。
また、竹ノ越には、その1年くらい前から急造の掘っ立て小屋で監視していたとの目撃談もある。昭和12年7月7日蘆溝橋事件に端を発する日中戦争の勃発は、大陸に近いこと玄界灘上空を一望できる地理地勢から防空監視が急がれる要因となり、応急の建物で監視に就いたことも十分考えられるのである。始めのころは、在郷軍人や青年団員が哨員として勤務に就いた。
昭和13年1月、文部省通達「防空監視哨に服務せる青年学校生徒の教練科修得時数に関する件」が伝達された。同14年には男子に対する青年学校義務制が実施された。これにより、その後一般哨員には青年学校生徒が勤務するようになる。
昭和16年12月17日「防空監視隊令」が制定され、組織、任務、勤務方法が規定された。これによって、それまで各県で適宜に設けられていた防空監視哨に法的根拠が与えられることになった。太平洋戦争開戦直後のことである。
哨員の構成は哨長(副)1人、哨員5人くらいで3班体制であった。勤務は午前8時から翌日の午前8時までの24時間。哨員交代で監視に当たった。職務の内容は、双眼鏡や肉眼、音響による、進入してきた敵機の機数、進入経路、侵入時間、機種の判別であった。これらの防空情報は、県の防空監視隊本部および前原警察所へ直通電話で通報した。
なお、飛行機以外では、事前に糸島半島沖合を潜水艦が通過する時刻の電話が入ると、双眼鏡で確認し、本部に報告した。朝8時、岐志及び西貝塚の方から次の班が登ってくると交代し、山を下った。3日に1日の勤務であった。また、県庁にあった防空監視隊本部に交代で研修に行った。研修では西部軍の軍人が指導した。彼らは監視哨にも指導に来た。
日本軍の攻勢で始まった太平洋戦争は、昭和18年に入り、ガダルカナル島からの撤退やアッツ島守備隊が全滅するなど、緊迫した戦況となってきた。この年、防空監視哨の施設の充実が図られることになった。小富士国民学校の児童生徒は、岐志山崎から登り、再度のレンガ運び上げの奉仕作業をした。飛行機の爆音をいち早く聞き取る、すなわち音響による監視を強化するためである。直径約3メートル、深さ約2メートルの円筒形の聴音壕が掘られた。レンガはその聴音壕の建設資材であった。
県内の監視哨は、18ヵ所に設けられた。前原署管内では、竹ノ越・福吉・小呂に開設されていた。この3ヵ所の監視哨は、敵の飛行機が北九州工業地帯を目標に玄界灘上空から進入してくることを想定し、連携して監視に当たった。
戦争末期、昭和20年6月19日夜11時ごろ監視に就いた。東の空が真っ赤に染まった。可也山の稜線がシルエットに浮かび上がった。探照灯が何本か上空を照らすのが見えた。その直後、雷山山麗に火の手が上がり、燃え盛る炎を目撃した。しばらくすると灰が降ってきた。この日、哨員が見た一連の光景は、米軍爆撃機B29の焼夷弾攻撃により、死者行方不明千人以上の犠牲者を出した福岡空襲大火災に続く、雷山空襲火災の遠望であった。
また監視哨には、兵員も一緒に勤務するようになった。船越にあった玄界基地本部に何度か書類を届けに行ったという、当時、勤務した哨員の話は、玄界基地の対空防備監視の任務も、竹ノ越の監視哨が担っていたことを物語っている。
防空監視哨は、終戦後、防空法の解除とともに廃止された。民防空不眠の努力は、およそ8年の歴史に幕を閉じることになったのである。
防空監視哨聴音壕
三角点を確認
三角点を確認
防空監視哨聴音壕
窪地を確認
窪地を確認(直径 約3.5m)
防空監視哨聴音壕
窪地を掘削
窪地を掘削
防空監視哨聴音壕
深さ70cm程 掘削
深さ70cm程 掘削
防空監視哨聴音壕
レンガ積を確認
レンガ積を確認
防空監視哨聴音壕
聴音壕推定復元図

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