フィールドワークによる地域資源を把握する活動をします。

トップフィールドワークトップ糸島にある神功皇后の足跡を訪ねて
鎮懐石八幡宮、神在神社、東八幡宮に残る神話伝承
怡土城に築かれた怡土城の立地性
神功皇后は明治、大正、そして太平洋戦争までは、女性にもかかわらず国民的に大変人気の高い英雄の一人でありました。それは臨月を遅らせながらも異国へと渡海し、めでたく凱旋帰国するストーリーが時代背景にマッチし、時代の要求に応えたからだと思います。その英雄視された神功皇后にまつわる神話伝承は、特に関西から以西の地に多くあるようです。 果たして神功皇后が実在したかどうか、その科学的に証明するものはなく、真偽のほどは定かではありません。しかし、何故、これほどまで数々の伝説があるのか、これらのことを考えると一笑に付すこともできないようです。 糸島にも神功皇后に関わるいろんな伝説があります。その手がかりを探す目的で幾つかの神社を訪ねるFWを企画・実施致しました。
~神功皇后とは?時代的には神話と実在の境界線上にある~
日本書紀によれば、神功は沖長足姫尊としての忌名を持ち、第14代仲哀天皇の后でした。仲哀天皇の死後は三韓征伐ということで海を渡り、凱旋後には筑紫の地で応神天皇を生んだことなどが記載されています。

(沖合いの島々、志摩半島から唐津方面を望む)

歴代天皇総覧(中公新書2001年版)によれば、神武天皇から仲哀天皇までの天皇を“神話時代の天皇”、応神天皇から中世時代までの天皇を“古代の天皇”として時代区分しています。それは実在性の濃淡を考慮した一つの分岐点ではないかと思われます。その意味で仲哀天皇の后であった神功もまた、その境界線上にあり、数々の伝説もまた境界線上にあるのではと思います。従って、あながち神話伝承として実在性を無視できるとは限りません。
~神社に語りつがれた幾つかの神話や遺物~
糸島には神宮皇后に関わりのある神話伝承が色濃く残っております。それらにまつわる足跡の多くは神社に存在しているようです。糸島の幾つかの神社とその足跡ともいえる伝承などを次に挙げてみます。
高祖神社
高祖神社と宇美八幡宮

・鎮懐石八幡宮:山上憶良が詠んだ神宮皇后伝説の鎮懐石万葉歌あり
・宇美八幡宮:武内宿禰から80代目の宮司、武内公文さんがご健在です
・神在神社:霞たなびき、神が在られるという神功皇后のお言葉は、神社や町名にも反映されています
・雉琴神社:三韓征伐の折に、神功皇后がこの地で雉の鳴き声を聞かれた。日本武命が弾かれる琴の音にも似て、勇気を貰われたという
・三坂神社:雷山を前にして神功皇后が休まれた坂の入口は江戸時代まで御坂といわれていました
・志登神社:神功皇后、豊玉姫、武内宿禰を祀る延喜式内社、糸島では唯一の式内社です
・産宮神社:凱旋後、百手的射の神事を奉納した。2月には参拝者に矢を放させてくれます
・染井神社:神功皇后が戦勝を占い、鎧が染まった井戸、干した松、大岩あり
・高祖神社:神代より鎮座あり、神功皇后韓国より帰還の後、当社の社殿を乾の方に向けて御建立と九州将軍記に記されています
  この他にもあり、枚挙にいとまがありません。
フィールドワークの実施報告
平成20年12月11日(木)、鎮懐石八幡宮、神在神社および東八幡宮の三つの神社のFWを実施したものです。
鎮懐石八幡宮
・鎮座地:二丈町大字深江字荻原2310番地
・祭神:神功皇后、応神天皇、武内宿祢
・由緒:鎮懐石八幡宮御實記などによると神功皇后は懐妊のお身体でこの地を通って朝鮮半島に向かわれた云々、、
・宮司:空閑俊明(氏)(以上、鎮守の森 糸島神職会より)
~鎮懐石八幡宮の名称の由来となった鎮懐石伝説~
境内には“九州最古の万葉歌碑”があり、その碑文には鎮懐石の背景を刻んでいます 鎮懐石とは神功が身重にもかかわらず新羅征討の間、ご自身の懐を鎮める、即ち、気持ち・精神を落着かせて鎮めるとの願いが込められた石のことです。


鎮懐石八幡宮境内と空閑宮司から説明を戴く

境内にある鎮懐石万葉歌碑(次葉)は江戸時代後期の安政年間の1859年に建立されています。揮毫は中津藩の学者である日巡武澄です。この当時の二丈町の深江は大分豊前の中津藩の飛地になっていました。日巡武澄の書は石碑の銘文から判るように大変立派な楷書体で、現在でも書道の手本となっているほどです。
万葉歌は奈良時代の万葉歌人で有名な山上憶良の長歌です。彼は当時、筑前国司として大宰府に赴任していた時に、鎮懐石の伝説を知り、いたく感動してこの歌を詠んだものです。山上憶良の人柄の一端を感じさせるものがあり、私達にも深く伝わってくるものがあります。
~万葉集第五にある筑前守山上憶良の詠と序文からの推理~
鎮懐石の万葉歌から奈良時代の神功皇后伝説を推理してみます。

1)鎮懐石を祀った場所
筑前国怡土郡深江村子負原の海に臨む丘の上と記しています。
驚くことには、西暦740年代の奈良時代の地名と現在の地名が似かよっています。


鎮懐石万葉歌碑、社務所前にて

今は荻原といっていますが、少し前まで子負原といっていたそうです。地名は生きた化石といわれますが、この地名が1,300年近く経過しても脈々として伝わっていることに驚愕させられます。地名や町名は大切に守りたいものです。

2)鎮懐石の形状、大きさ
かなり具体的に説明しています。鶏の卵状の楕円形で美しい。大きい石は長さ1尺2寸6分、周は1尺8寸6分、重さは18斤5両。もう一つの石はこれより若干小さめです。とても人間が持ち歩くには大きく重たく、まして懐に入れたり、腰に巻きつけるには難しいようです。江戸時代の学者である貝原益軒は神仏のことはとやかく言うべきものではないといっていますので、詮索は止めておいた方が無難です。しかし、このような石が、深江の子負原の丘陵上に祀られていたことは否定できないと思われます。

3)道行く人が跪拝の礼をとる
祀られ鎮懐石の前を通る時は、公私に関係なく跪き、また馬上の人は下馬して同じく跪いて敬拝するとあります。山上憶良は、この地に伝わる話を大宰府で聴き、大いに感動してこの歌を作ったものと思います。

4)憶良がこの話を聴いたのは僅かに三百年前の神功皇后の話
神功皇后が応神天皇の生母であったならば、西暦四百年ごろの人になります。そして憶良がこの話を大宰府で聴いたのが西暦七百年半ばごろとすると、それほど歳月は経っておりません。当時の地方では文字により書き残された伝承ではなく、語り部や口伝による神功皇后に対する敬拝の礼が伝わったものであろうと思われます。その意味で、全くの架空の伝説でないようにも思われます。

以上などから、憶良が神功皇后の鎮懐石の伝承話に感動したことに、それなりの信憑性は高いのではと推察されます。
神在神社
・鎮座地:前原市大字神在801番地
・祭神:ニニギノ尊、イザナギノ尊、イザナミノ尊、天常立命、国常立命、ヒコホホデミノ命、菅原神
・由緒:もと牧の天神山の上に鎮座ありしを元禄16年(1700)今の地に遷座する。
(神功皇后に関することは記されていない)
・宮司:豊田俊之(氏)。東八幡宮宮司を兼職。
(以上、鎮守の森 糸島神職会より)

神在神社にまつわる伝承をさらに明らかにできないか、神在神社参道間際に住んでおられる郷土歴史家の楢崎氏を訪問させて戴きました。しかし、神功皇后に起源する神在に関わる伝承としては、次のような話が伝わっています。神在という語源は、神功皇后がこの地に来られた折、この神社のある方角にやんごとなき霞たなびき、神の存在を感じられ、このような言葉が伝わったと言われています。
当日は座談会形式で次のような伝承の話を伺いました(於神在公民館)。
~村社神在神社について~
1)日本書紀には、西暦572年、征新羅将軍大伴狭手彦が遠征の成功と安全をなすために、都よりニニギノ尊、イザナギノ尊、イザナミノ尊、ヒコホホデミノ命、ウケモチノ命、オオナムチノ命を勧請したことが書かれているが神功皇后については触れていない。
2)神社に関する石文
幡(はた)建石、注連掛石、鳥居柱、手水石鉢、拝殿前の石灯篭、竿石などには神功皇后に関わる伝承はない。

神在神社の宮司の豊田氏には、次の東八幡宮でお会いしたが、神功皇后伝説については神在神社にはなく、東八幡宮境内の“皇后石”しか伝わっていないとのことであった。
東八幡宮
・鎮座地:前原市大字東1105番地
・祭神:応神天皇、神宮皇后、比賣大神
・由緒:朱雀天皇の御宇、平将門云々、、とあり。境内に神宮皇后が髪をとかれた髪櫛石がある
・宮司:豊田俊之(氏)
 (以上、鎮守の森 糸島神職会より)
~境内には神功皇后が髪をとかれた髪櫛石がある~
当日は、豊田宮司から東八幡宮に関わる縁起などのお話を賜わりました。神功皇后に関しては、境内に代々、髪櫛石(皇后石、おぐし石とも言う)といわれる石があるということで、ご案内して戴きました(写真)。なお、神話伝承に関する話は特に伝わっていないとのことであった。

東八幡宮の境内
静寂な境内にある髪櫛石
以上、三社のFWを行った。次回には上記にある宇美八幡宮や雉琴神社などを中心としたFWを企画の予定です。

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